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深く遠い往還――私の藤岡亜弥論



飯田夏生実 


何にでも出会いのタイミングはあるのかもしれない。今回の藤岡亜弥さんへのインタビューを通じて、私はそう実感したのだった。

私が藤岡さんに初めて会ったのは、2017年9月、田端にある小さなギャラリーO G U・M A Gにおいてであった。前年の「川はゆく」展で伊奈信男賞を受賞し、同名写真集の刊行(赤々舎)を記念して行われた展示だった。当時の私は写真を学び始めて間もない頃で、藤岡さんの作品を見たのも初めてで、「川はゆく」についての予備知識もなく、点数を絞った展示のどこにその魅力があるのかもよくわからなかったというのが本当のところだった。

ところが、今回のインタビューを前に、まだ包装フィルムがかかったままだった『川はゆく』を本棚から取り出し、ページをめくって驚いた。私はO G U・M A Gでいったい何を見ていたのか。そこにあったのは、あふれる色彩と生き生きとした人々の姿、そして繰り返し登場する原爆ドーム、広島平和記念資料館、トランプ大統領の誕生を告げるニュース画面、広島カープの優勝の瞬間、慰霊記念祭、波動拳を遊ぶ少女たちと、現在と過去、歴史と生活のすべてが重奏するように重なり、圧倒的な質量で迫ってきたではないか。

これはルポルタージュではない。被爆地ヒロシマをマークアップする記録でもない。一人の作家がいかにしてヒロシマという街を生きて歩いてシャッターを切っていったかという、まさに「生」の「瞬間」が積み重ねられている。一人の作家の今の「生」を横軸とするならば、ヒロシマという土地の「生」とその「記憶」を縦軸として、互いにシンクロしつつ一体化して立ち上がってくるさまは、賑やかな人々のさざめきを伴い、見るものを抗い難い引力をもって呑み込んでいく。いわば時間と空間の万華鏡の只中に立たされてしまうかのようだ。

「広島というテーマが大きすぎて、平和や広島を語ることに畏れがあり、写真を撮り始めるまで時間がかかった。すでに〔評価の高い〕先行作品のイメージに引っ張られて写真が撮れなくなった時期もあった。おずおずと迷いながら撮っていくうちに近づけた気がしている」(注1)と藤岡さんは言う。そして、「撮る時に考えていたら撮れなくなるから、できるだけ素直に撮ろうと思っている。撮った後に作品を見ながら、そうだったのかとわかることがありますよね。わからないから続けていける」(注2)。

この言葉は決して軽くない。本当に求めているものを日常の何気ない一瞬に捉えるには、既成のイメージに陥らず、いかに自らの無意識へ降りてそこにある欲望を直感として彫り出していくかという格闘が必要なのだ。それは、長く狭い迷路を歩くのに似て苦しく難しいものだ。だが、その道程を畏れず純化しつつ進むことが藤岡さんの写真行為と固く結びついている。

では、その研ぎ澄まされた直感が捉えようとしているものは何だろうか? 性急に答えを求める前に、前作『私は眠らない』(赤々舎、2009年)を見てみようと思う。

「よく知っているはずの土地や家族がときどきまったく知らないものに見えてくる時があって、ギクシャクした記憶の組み合わせみたいなものがあった。それが写真を撮るなかで出てきたら、というか、写真の中に見つけていくというような作業だったと思う」(注3)。

生まれ育った呉市と家族を中心に撮影されたこの写真集は、漁港の汚れた写真から始まり、古びた家、朽ちかけた花、錆び付いた廃バス、危篤の祖父の顔の接写、藤岡さんが「オレンジの城」と呼ぶ(注4)白亜にオレンジ色の屋根の高い建物、そして、しわがれた母の手、フラフープ、海、岩、山から見下ろす町の全景と続いて終わる。その中心にあるのは、おそらくは祖父の死である。1年半に及ぶヨーロッパ放浪から突如、祖父危篤の知らせで帰国した藤岡さんは、写真を撮ることで自分の置かれた現在を、過去の厚みとともに、まるごと掴み取ろうとする。

最も私の印象に残ったのは、襖に貼られた写真の切り抜きである。祖母の目、祖父の口、犬とその影、古びた人形が丸く切り抜かれて貼ってあり、まるで大切なものの墓標のように見えるのだ。彼女にとって、故郷とはすでに墓標なのだろうか?

過去につながる祖父の生きた時代の呉の町を思わせる漁港、現在の寂れゆく町、その中に燦然と輝く<オレンジの城>がある。この<オレンジの城>だけが色褪せていない。藤岡さんの内なる記憶の象徴であり、今なお生命力をもって常に藤岡さんの目に映るものだと言えるのではないか。手が届きそうで届かない、輝く美しい何かを求め続ける藤岡さんの純粋な眼差しこそが、この写真集を貫き支えているとさえ感じられる。つまり、寂れゆく地方都市というレイヤー、呉市という土地にまつわるレイヤー、故郷と家族というパーソナルヒストリーのレイヤーをも超えて、白く輝く光への眼差しこそが、この写真集を稀有なものにしているのだと私には思えるのである(注5)。

そうした純粋な眼差しは、デビュー作である写真集『さよならを教えて』にも表出しているのだろうか。

ファーストカットは、ベッドに投げ出した足があり、その先には赤いレースのかかった窓。窓からは仄明るい光が差し込み、カーテンには大きな樹木が1本だけ中央に立ち、その周り一面に花の模様が散っている。窓の下に置かれたテレビには、絵本のような家と丘の雪景色が映っている(注6)。

次の1枚は、部屋から出て、街へ踏み出す。光に満ちた街路に木々が並び、まるで寒さに吐く息で曇ったかのようなぼやけた親子の写真へと続く。

しかし、これらは時系列で並んでいるのではない。藤岡さん自身の手で「終わりのない回想旅行」として編集され、時系列ではなく「色濃い夢」の「走馬灯」(注7)のように展開していくのだ。だから、この旅は私の想像とは異なり街から街へ歩いていくのではなく、窓から窓、車窓から車窓、ベッドからベッドへ、出会った人から人へと(注8)、藤岡さんが写真にとどめたものを、私たちも見ることになる。

「〔ヨーロッパを放浪していた当時は〕生活することに精一杯で、もう観光なんてできない。退屈だったり惰性だったりするときにシャッターを切っている」(注9)。

と尋ねれば明るくフレンドリーに答えてくださるとおり、これは移動=旅ではなく、アルバイトや宿探しという不安ばかりの日々の中でふと立ち止まった瞬間を捉えている。では、どこで藤岡さんは足を止め、シャッターを切ったのだろうか。

ベッドと同様に繰り返し現れるイメージは<窓>である。車内は暗く、光溢れる風景が埃だらけの窓ガラス越しに美しい。そして、部屋の窓から見る異国の風景にも透明な光があふれており、見る者を魅了する。

それら<窓>の写真たちを見ると、私はアンドリュー・ワイエスが描いた窓(注10)を連想する。ワイエスがその絵画で表現したのは、今ここではないどこか遠いところへの憧憬であっただろう。そうした気持ちが藤岡さんにもあったのかどうかはわからない。「言われてみればそうかもしれないけど、意識したことはなかった」と言う(注11)。

だが、ここではないどこか、美しく光り輝く<あの場所>を知らず知らずのうちに探していたのではないだろうか。そこに焦がれる気持ちは、どこにいようとも一貫してあったようにも思えてくるのだ。

「旅の作家と言われることもあるのだけれど、旅をしたいと言うよりは、……自分が落ち着く場所、自分のネバーランドが見つからなかったから、ということかもしれない」(注12)。

後年、『川はゆく』上梓後に、生活を成り立たせるために写真家も辞める覚悟で広島の郊外にある小田に地域おこし協力隊の一員として移り住む(注13)。そこで初めて、「自分がそのコミュニティーに属しているという感覚をもち」、地域おこし協力隊の任期が終わった後も住み続け「村のことを考えている」と言う(注14)。

小田という過疎の村に、藤岡さんが求め続けた<ネバーランド=城>は果たしてあったのだろうか?

「こんな田舎にいつまでもいていいのかな。自分でも本当にわかってやっているわけじゃない。例えば、結婚して子供を育てているというような地域に根を下ろして暮らしているわけではないし。今はここにいるって感じですね」(注15)。同時に、こうも言うのだ、「私の場合、撮るために生活しているわけではなくて、私の写真は生活から生まれてくるんです」(注16)。

『川はゆく』の中の煌めく光に満ちたスナップは、まるで<城>の輝きを自らの近くへ、いや自らの中へと呼び込むプロセスでもあったのではないか。焦がれ続けた象徴としての<城>は、ここでは、日常の中に輝いて存在する人々の生き生きとした姿へと二重映しになっているのかもしれない。

鬱々として薄闇から窓を通して光を求め続けて叶わず、自分の足元を見つめ直す過程で輝く<城>をめぐって逍遙し、ついには自らの中へと光を呼び込みつつ歩んできた。その道程は、深く鋭く直感を彫り、その直感に忠実に実践された。その辻々で、現実生活と無意識の深く遠い往還を経て、掬い上げられた1枚1枚が編まれて作品が生まれる。

言葉を代えて言うならば、藤岡さんが求め続けたネバーランド=城は、実は写真の中にこそ姿をあらわにする。それが日々の生活から生まれてくるのだとしたら、なんと愚直なまでに激しく、なんと幸福な作家であろうか。

そして今、私は藤岡さんと同じ時代を生きていることに限りない喜びを見出す。常人ならぬ往還の振り幅の深さに、そして純粋で真っ直ぐな眼差しに、そこからたくまざる形で写真表現へと昇華させた1枚1枚に、激しく心を揺さぶられ、心奪われるからである。


<注釈>

注1 周南市美術博物館「第27回林忠彦賞 藤岡亜弥」、C A T V You tube(https://youtu.be/KFvtaB7d5oY)より。

注2 <タカザワケンジさんによる写真好きのための文章講座・第5期>(PHaTPHOTP写真教室主催)における藤岡亜弥さんへのインタビューより(6月18日19時より、Z O O Mによる)。

注3 前掲、「第27回林忠彦賞 藤岡亜弥」より。

注4 前掲、タカザワ文章講座インタビューより。

注5 ここに至って私は初めて、写真集のタイトル「私は眠らない」が実に正鵠を射ているのだと気づく。タイトルのみならず後書きなどを見てもその言語表現の才能は明らかだが、藤岡さんによると「もうダメだ、もうダメだと思って最後の最後に出てくる。すごい苦しんでいる」のだと言う。言葉を選び出す妥協なき緻密さに改めて驚嘆するしかない。

注6 スティーブン・ショアやアレックス・ソスを持ち出すまでもなく、モーテルのベッドとテレビが映っていれば、旅の始まりを告げる写真だと私たちは知っている。

注7 『さよならを教えて』(専門学校ビジュアルアーツ、2004年)のあとがきより。

注8 藤岡さんは1994年に日本大学芸術学部写真学科を卒業、1996年にはアンソロジー写真集『シャッター&ラブ』(INFAS)で1990年代前半に頭角を表した女性写真家16人のうちの1人として取り上げられている。当時、H I R O M I Xの登場などに刺激され一般女性たちも気軽に日常的な写真を取り始めたことと相まって、台頭しつつあった彼女たち若手作家をもひっくるめて<女の子写真家>と定義づけられ、それは瞬く間に一大ブームの様相を呈した。1987年から2013年まで子育てと仕事に追われて世間の動きを全く感知していなかった私は当時のことを知らない。だが、雑誌の特集の多さなどに、いかにそれが大きな時流であったかが窺える(参考資料:長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』、大福書林、2020年)。

その定義は、ひとつぼ展や写真新世紀で入賞した作家たちを一般女性の傾向と一括りにまとめる乱暴なものだが、当時の若い女性作家たちには反論の場も与えられなかったという。ちなみに、『さよならを教えて』は、テームという男性からのメールとともに紡がれていく。それはあたかも「私」の居場所を求めての旅のようでもありつつ、出会いと別れのほろ苦く切ない感情が織り込まれているのだが、そのメールを掲載するかどうか、<女の子写真>に括られがちになりそうで相当に悩んだと言う。

注9 前掲、タカザワ文章講座インタビューより。

注10 「海からの風」1947年。

注11 前掲、タカザワ文章講座インタビューより。

注12 前掲、タカザワ文章講座インタビューより。ちなみに、藤岡さんは、台湾(1997年)、ヨーロッパ(1999〜2000年)、ニューヨーク(2008〜2012年)に滞在していた。

注13 藤岡さんの写真家としての経歴は若い頃から華々しいものだが、それでも「写真集は売れないし、写真では食べていけない」(前掲、タカザワ文章講座インタビューより)という。

注14 いずれも、前掲、タカザワ文章講座インタビューより。

注15 同上。

注16 「木村伊兵衛賞を受賞『広島』で見つけた写真家として生きる場所」『事業構想』2019年8月号(https://www.projectdesign.jp/201908/pioneer/006727.php)より。


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